10. ビルケナウ強制収容所1 [2011 ポーランド・スロバキア・ハンガリー]
2011年4月28日(木)~5月6日(金) ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月30日(土)
アウシュヴィッツ強制収容所の次は、ビルケナウ強制収容所へ行きました。
ビルケナウは、アウシュヴィッツから3kmほど離れたブジェジンカ村に作られた
アウシュヴィッツよりも大規模な強制収容所。
1941年に建設が始まり、1945年にソ連軍によって解放されるまでの間に
百数十万人の命が奪われた場所。
アウシュヴィッツからビルケナウまでは、30分毎に無料のシャトルバスが
出ています。
「死の門」と言われた入り口のゲート。
「死の門」をくぐって鉄道の引き込み線がまっすぐに敷地内へ。
列車から降りた人々は、すぐに女性・子どもの列と男性の列に分けられ、
さらに、医師が健康な者だけを選り分けたとのこと。
労働可能な人々は収容所に入れられ、老人や病人、妊婦、子どもは
そのままガス室に送り込まれたのだとか・・・。
「死の門」ゲートの見張り塔からの写真。
ビルケナウの敷地全体の様子を眺めることが出来ます。
鉄道の引き込み線の左右の広大な土地に、300棟以上のバラックが
並んでいたとのこと。
向かって左側。 当初はバラックはこちら側だけだったようですが、
向かって右側。 次第にこちら側にも増設されていったのだそう。
遥か先にまで続いています・・・。
バラックが立ち並ぶエリアへの入り口。
高圧電流の流れる有刺鉄線が、これでもかというくらい張られています。
ここには銃を持った見張りがいたのでしょうね・・・。
バラックの大部分は破壊されて残っていませんが、
一部のバラックは当時のまま保存され、内部の見学が可能です。
バラックの周りには、たくさんのタンポポが咲き、黄色と緑の絨毯が
可愛らしい雰囲気を漂わせているのに、
バラック内に入ると、とても重苦しい空気が流れていました。
眺めているだけで恐怖を感じ、すぐに外に出てしまいました。
つづく
4月30日(土)
アウシュヴィッツ強制収容所の次は、ビルケナウ強制収容所へ行きました。
ビルケナウは、アウシュヴィッツから3kmほど離れたブジェジンカ村に作られた
アウシュヴィッツよりも大規模な強制収容所。
1941年に建設が始まり、1945年にソ連軍によって解放されるまでの間に
百数十万人の命が奪われた場所。
アウシュヴィッツからビルケナウまでは、30分毎に無料のシャトルバスが
出ています。
「死の門」と言われた入り口のゲート。
「死の門」をくぐって鉄道の引き込み線がまっすぐに敷地内へ。
列車から降りた人々は、すぐに女性・子どもの列と男性の列に分けられ、
さらに、医師が健康な者だけを選り分けたとのこと。
労働可能な人々は収容所に入れられ、老人や病人、妊婦、子どもは
そのままガス室に送り込まれたのだとか・・・。
「死の門」ゲートの見張り塔からの写真。
ビルケナウの敷地全体の様子を眺めることが出来ます。
鉄道の引き込み線の左右の広大な土地に、300棟以上のバラックが
並んでいたとのこと。
向かって左側。 当初はバラックはこちら側だけだったようですが、
向かって右側。 次第にこちら側にも増設されていったのだそう。
遥か先にまで続いています・・・。
バラックが立ち並ぶエリアへの入り口。
高圧電流の流れる有刺鉄線が、これでもかというくらい張られています。
ここには銃を持った見張りがいたのでしょうね・・・。
バラックの大部分は破壊されて残っていませんが、
一部のバラックは当時のまま保存され、内部の見学が可能です。
バラックの周りには、たくさんのタンポポが咲き、黄色と緑の絨毯が
可愛らしい雰囲気を漂わせているのに、
バラック内に入ると、とても重苦しい空気が流れていました。
眺めているだけで恐怖を感じ、すぐに外に出てしまいました。
つづく
9. アウシュヴィッツ強制収容所3 [2011 ポーランド・スロバキア・ハンガリー]
2011年4月28日(木)~5月6日(金) ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月30日(土)
アウシュヴィッツ強制収容所の続き。
囚人棟が並ぶエリアからガス室へと向かう道。
逃亡防止のために高圧電流が流れてた有刺鉄線。
強制収容所の周りは、この有刺鉄線で二重に囲まれていたとのこと。
日々の暴力的抑圧に耐えきれなくなり、感電自殺をするために
この電流の流れる鉄線に自ら飛び込む方も多かったのだそう。
ガス室に送られる方がここに整列している写真、ありますね・・・。
ガス室・焼却炉の手前にある絞首台。
アウシュヴィッツ強制収容所の所長だったルドルフの死刑執行は
ここで行なわれたのだとか。
大きな煙突のある「ガス室・焼却炉」。
現在は観光客の出入り口となっている扉、ここで最期を迎えた方々も
ここからガス室へ入ったのだろうか。
「シャワーを浴びるため」と騙されていたので落ち着いた様子で順番を
待っていたとのことだが・・・。
ガス室の内部。
焼却炉。
1台の炉には同時に2・3人の死体が入れられ、1日に350人ほどが
焼かれていたとのこと。
これで、 アウシュヴィッツ強制収容所の見学は終了。
矢印に沿ってインフォメーションセンターに戻り、映像室へ。
収容所がソ連軍によって解放されるシーンやその時に助け出された方々、
ナチス・ドイツの犯罪の証拠などの記録映画が放送されていました。
つづく
4月30日(土)
アウシュヴィッツ強制収容所の続き。
囚人棟が並ぶエリアからガス室へと向かう道。
逃亡防止のために高圧電流が流れてた有刺鉄線。
強制収容所の周りは、この有刺鉄線で二重に囲まれていたとのこと。
日々の暴力的抑圧に耐えきれなくなり、感電自殺をするために
この電流の流れる鉄線に自ら飛び込む方も多かったのだそう。
ガス室に送られる方がここに整列している写真、ありますね・・・。
ガス室・焼却炉の手前にある絞首台。
アウシュヴィッツ強制収容所の所長だったルドルフの死刑執行は
ここで行なわれたのだとか。
大きな煙突のある「ガス室・焼却炉」。
現在は観光客の出入り口となっている扉、ここで最期を迎えた方々も
ここからガス室へ入ったのだろうか。
「シャワーを浴びるため」と騙されていたので落ち着いた様子で順番を
待っていたとのことだが・・・。
ガス室の内部。
焼却炉。
1台の炉には同時に2・3人の死体が入れられ、1日に350人ほどが
焼かれていたとのこと。
これで、 アウシュヴィッツ強制収容所の見学は終了。
矢印に沿ってインフォメーションセンターに戻り、映像室へ。
収容所がソ連軍によって解放されるシーンやその時に助け出された方々、
ナチス・ドイツの犯罪の証拠などの記録映画が放送されていました。
つづく
8. アウシュヴィッツ強制収容所2 [2011 ポーランド・スロバキア・ハンガリー]
2011年4月28日(木)~5月6日(金) ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月30日(土)
アウシュヴィッツ強制収容所の続き。
収容されていた方々が使用していたベッド。
ひとつの段にかなりの人数が押し込まれていたようです。
当然、衛生状態は良くなく、色々な病気が蔓延していたとか・・・。
展示がある囚人棟の外に出ると、こんなにキレイな青空。
いつもなら素敵に見える光景が、苦しい気分をさらに苦しくする。
当時も、こんなにキレイな青空だった日があったのだろうか。
そんななかここに閉じ込められ、死の恐怖と闘っていたなんて・・・。
ユダヤ人女性囚への不妊処置の人体実験や、双子や身体障害者を
対象とした遺伝学の研究実験などが行なわれていた10号棟と、
収容所内の刑務所としての役割のあった11号棟の間にあるのは、
銃殺に使われていたという「死の壁」。
窓に木の板で覆いがしてあるのは、「死の壁」で行なわれていることを
建物内から見られないようにするため。
壁の前に裸で立たせ、銃殺していたとのこと。
お花、私も持ってくれば良かったな・・・。
手を合わせてお祈りだけさせていただきました。
点呼広場。 10時間以上にも渡って点呼が続くこともあったとのこと。
やはり青空は似合わない・・・。
すぐ横には、集団絞首台。
見せしめのために使われることもあったのだそう。
これで、アウシュヴィッツ強制収容所内をほぼ一周。
「働けば自由になる」の門のところまで戻って来ました。
つづく
4月30日(土)
アウシュヴィッツ強制収容所の続き。
収容されていた方々が使用していたベッド。
ひとつの段にかなりの人数が押し込まれていたようです。
当然、衛生状態は良くなく、色々な病気が蔓延していたとか・・・。
展示がある囚人棟の外に出ると、こんなにキレイな青空。
いつもなら素敵に見える光景が、苦しい気分をさらに苦しくする。
当時も、こんなにキレイな青空だった日があったのだろうか。
そんななかここに閉じ込められ、死の恐怖と闘っていたなんて・・・。
ユダヤ人女性囚への不妊処置の人体実験や、双子や身体障害者を
対象とした遺伝学の研究実験などが行なわれていた10号棟と、
収容所内の刑務所としての役割のあった11号棟の間にあるのは、
銃殺に使われていたという「死の壁」。
窓に木の板で覆いがしてあるのは、「死の壁」で行なわれていることを
建物内から見られないようにするため。
壁の前に裸で立たせ、銃殺していたとのこと。
お花、私も持ってくれば良かったな・・・。
手を合わせてお祈りだけさせていただきました。
点呼広場。 10時間以上にも渡って点呼が続くこともあったとのこと。
やはり青空は似合わない・・・。
すぐ横には、集団絞首台。
見せしめのために使われることもあったのだそう。
これで、アウシュヴィッツ強制収容所内をほぼ一周。
「働けば自由になる」の門のところまで戻って来ました。
つづく
7. アウシュヴィッツ強制収容所1 [2011 ポーランド・スロバキア・ハンガリー]
2011年4月28日(木)~5月6日(金)
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月30日(土)
ワルシャワからクラクフへ移動するため、朝3:00起床。
3:50にホテルをチェックアウトし、歩いてワルシャワ中央駅へ。
ワルシャワ中央駅4:30発→クラクフ本駅7:45着、
EIC(エクスプレス・インターシティ)13417
全席指定制、2等のチケットで、115.5ズロチ(≒4,102円)。
当初プラットフォーム4と表示されていたのに、出発時刻直前になって
プラットフォーム3に変更となり、けっこう焦ったー。
英語すらロクに理解できない私だけど、周りにいた方々が慌てて身支度し、
小走りで移動し始めたのを見て、何とか状況を把握できた・・・(^^;
3時間以上乗るので、どんな車両かなと少し心配だったけれど、
なかなかキレイにしてあり、私の席は6人掛けコンパートメントの窓側。
ここを、西洋人の大学生の男の子と2人占めでした。
彼もクラクフまで行くようで、
「到着したときに眠ってたら起こして。」と頼まれてしまう私。
えっと、私も寝るので、起こせるか責任は持てませんけど・・・(^^;
列車は定刻どおり7:45にクラクフ本駅に到着。
この日から2泊するホテルに行き、荷物を預け、バスターミナルへ。
クラクフ本駅8:25発のバスで、アウシュヴィッツへ行きました。
アウシュヴィッツというのはドイツ語で、
ポーランドでは「オシフィエンチム」と言われているようです。
クラクフからアウシュヴィッツまでは、バスで1時間40分くらい。
片道11ズロチ(≒390円)でした。
アウシュヴィッツ博物館は、通常は入場無料。
ガイドブックに「ただし混雑防止のため、5~10月の10時~15時
まではガイドなしでは入れないことがあります」と書いてあったので、
翌日の5月1日ではなく、この日、4月30日に行くことに決めたのに、
10:30ころ入場しようとしたら、ガイドツアーでないとダメと言われ。
ガイドツアーだと、有料なんですよね・・・。
しかも、けっこうお高い40ズロチ(≒1,420円)。
で、とりあえず、英語ツアーのチケットを購入しました。
しかし、この歴史的に重要な施設を後世に残すための資金だと思えば、
入場が有料であることは当然ですね!!
収容所の入り口だったゲート。
ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)と書いてあります。
収容されていた人々によって作られたというこのゲート。
「B」の字が上下逆さまに取り付けられているのは、
せめてもの抵抗の証だったと言われているようです。
収容された方々は、どんな思いでこのゲートをくぐられたのでしょう。
英語ガイドツアーで入場したので、当然こうやってガイドさんが付いて
いるのだけど、自分のペースでゆっくりじっくり見学したかった私、
わざと遅れを取って、ツアーの集団からはぐれてみました・・・(^^;
その後、ひとりで見学したけれど、特に注意されたりはなかったです。
ガス室での大量殺人に使われたという劇薬チクロンBの空き缶。
パッケージを見ているだけで恐ろしい。
身体が不自由な方の遺体から外されたという義足など。
収容された方々が身の回りのものを入れてきたと思われるトランク。
書かれてある名前や住所を見ていると、とても切ない・・・。
博物館内は、見ているのがあまりにも苦しくなるようなものばかりなので、
時々外の景色を眺めて落ち着きたくなるのだけど、博物館は収容所として
使われていた建物を利用しているので、窓の外の景色もこんな感じ。
見えるのは、高圧電流が流されていたという有刺鉄線と監視塔。
正面・左横・右横と3枚の写真を撮られたという収容者の方々。
皆んなとっても不安そうな表情をしていて、胸がしめつけられます。
つづく
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月30日(土)
ワルシャワからクラクフへ移動するため、朝3:00起床。
3:50にホテルをチェックアウトし、歩いてワルシャワ中央駅へ。
ワルシャワ中央駅4:30発→クラクフ本駅7:45着、
EIC(エクスプレス・インターシティ)13417
全席指定制、2等のチケットで、115.5ズロチ(≒4,102円)。
当初プラットフォーム4と表示されていたのに、出発時刻直前になって
プラットフォーム3に変更となり、けっこう焦ったー。
英語すらロクに理解できない私だけど、周りにいた方々が慌てて身支度し、
小走りで移動し始めたのを見て、何とか状況を把握できた・・・(^^;
3時間以上乗るので、どんな車両かなと少し心配だったけれど、
なかなかキレイにしてあり、私の席は6人掛けコンパートメントの窓側。
ここを、西洋人の大学生の男の子と2人占めでした。
彼もクラクフまで行くようで、
「到着したときに眠ってたら起こして。」と頼まれてしまう私。
えっと、私も寝るので、起こせるか責任は持てませんけど・・・(^^;
列車は定刻どおり7:45にクラクフ本駅に到着。
この日から2泊するホテルに行き、荷物を預け、バスターミナルへ。
クラクフ本駅8:25発のバスで、アウシュヴィッツへ行きました。
アウシュヴィッツというのはドイツ語で、
ポーランドでは「オシフィエンチム」と言われているようです。
クラクフからアウシュヴィッツまでは、バスで1時間40分くらい。
片道11ズロチ(≒390円)でした。
アウシュヴィッツ博物館は、通常は入場無料。
ガイドブックに「ただし混雑防止のため、5~10月の10時~15時
まではガイドなしでは入れないことがあります」と書いてあったので、
翌日の5月1日ではなく、この日、4月30日に行くことに決めたのに、
10:30ころ入場しようとしたら、ガイドツアーでないとダメと言われ。
ガイドツアーだと、有料なんですよね・・・。
しかも、けっこうお高い40ズロチ(≒1,420円)。
で、とりあえず、英語ツアーのチケットを購入しました。
しかし、この歴史的に重要な施設を後世に残すための資金だと思えば、
入場が有料であることは当然ですね!!
収容所の入り口だったゲート。
ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)と書いてあります。
収容されていた人々によって作られたというこのゲート。
「B」の字が上下逆さまに取り付けられているのは、
せめてもの抵抗の証だったと言われているようです。
収容された方々は、どんな思いでこのゲートをくぐられたのでしょう。
英語ガイドツアーで入場したので、当然こうやってガイドさんが付いて
いるのだけど、自分のペースでゆっくりじっくり見学したかった私、
わざと遅れを取って、ツアーの集団からはぐれてみました・・・(^^;
その後、ひとりで見学したけれど、特に注意されたりはなかったです。
ガス室での大量殺人に使われたという劇薬チクロンBの空き缶。
パッケージを見ているだけで恐ろしい。
身体が不自由な方の遺体から外されたという義足など。
収容された方々が身の回りのものを入れてきたと思われるトランク。
書かれてある名前や住所を見ていると、とても切ない・・・。
博物館内は、見ているのがあまりにも苦しくなるようなものばかりなので、
時々外の景色を眺めて落ち着きたくなるのだけど、博物館は収容所として
使われていた建物を利用しているので、窓の外の景色もこんな感じ。
見えるのは、高圧電流が流されていたという有刺鉄線と監視塔。
正面・左横・右横と3枚の写真を撮られたという収容者の方々。
皆んなとっても不安そうな表情をしていて、胸がしめつけられます。
つづく
6. ワルシャワ蜂起記念碑 [2011 ポーランド・スロバキア・ハンガリー]
2011年4月28日(木)~5月6日(金)
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月29日(金)
バルバカンの次は、ワルシャワ蜂起記念碑へ向かいました。
ワルシャワ蜂起記念碑に向かって歩いている途中にあった
ノーベル賞学者キュリー夫人の生家。
現在は、キュリー夫人博物館になっています。
ワルシャワ蜂起記念碑。
第2次世界大戦末期の1944年8月1日、
各地でドイツ軍を打ち破ったソ連軍がワルシャワに迫り、
解放は間近だと思ったワルシャワ市民は、
ドイツ軍に対して一斉に蜂起した。
一時的に市街中心部が解放区となったが、
政治的には反ソ連だった蜂起の実態を見抜いたソ連軍が、
ヴィスワ川の対岸まで達したところで停止。
援軍を断たれた蜂起は次第に力を失い、
20万人以上の死者を出し、市街のほとんどを焼き尽くされ、
10月2日に降伏した。
この蜂起記念碑は、
蜂起45周年の1989年8月に建てられたとのこと。
戦争に関するものは、悲しいものばかりですね・・・。
これは何だったかな、ワルシャワ蜂起記念碑から
王宮広場方面に歩いている途中に見つけて撮影したもの。
王宮広場まで戻ってきました^^
観光用のこんな列車も走っていたのですね~♪
ワルシャワにはトラムもあります^^
半日しかいなかったので、
乗る機会はありませんでしたが・・・。
故ヨハネ・パウロ2世の大きな写真が掲げられた
聖アンナ教会。
ワルシャワ大学。
37階建て、塔の高さ234mの文化科学宮殿。
スターリンからの贈り物として、
1952年から4年もかけて建てられたものらしい。
これで、観光は終了。
ホテルに戻る前に、ワルシャワ中央駅で、
翌日のクラクフ行きの鉄道チケットを買いました。
Warszawa Centralna 4:30発→ Krakow Glowny 7:45着。
EIC(エクスプレス・インターシティ)。
全席指定制2等のチケットで、115.5ズロチ(≒4,102円)。
翌日は4:30の列車に乗るために、
朝(夜中)3時には起きなければなりません。
なので夕食は、スーパーマーケットで買ったパンとお惣菜で
済ませちゃいました。
そして20:30早々と就寝。
つづく
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月29日(金)
バルバカンの次は、ワルシャワ蜂起記念碑へ向かいました。
ワルシャワ蜂起記念碑に向かって歩いている途中にあった
ノーベル賞学者キュリー夫人の生家。
現在は、キュリー夫人博物館になっています。
ワルシャワ蜂起記念碑。
第2次世界大戦末期の1944年8月1日、
各地でドイツ軍を打ち破ったソ連軍がワルシャワに迫り、
解放は間近だと思ったワルシャワ市民は、
ドイツ軍に対して一斉に蜂起した。
一時的に市街中心部が解放区となったが、
政治的には反ソ連だった蜂起の実態を見抜いたソ連軍が、
ヴィスワ川の対岸まで達したところで停止。
援軍を断たれた蜂起は次第に力を失い、
20万人以上の死者を出し、市街のほとんどを焼き尽くされ、
10月2日に降伏した。
この蜂起記念碑は、
蜂起45周年の1989年8月に建てられたとのこと。
戦争に関するものは、悲しいものばかりですね・・・。
これは何だったかな、ワルシャワ蜂起記念碑から
王宮広場方面に歩いている途中に見つけて撮影したもの。
王宮広場まで戻ってきました^^
観光用のこんな列車も走っていたのですね~♪
ワルシャワにはトラムもあります^^
半日しかいなかったので、
乗る機会はありませんでしたが・・・。
故ヨハネ・パウロ2世の大きな写真が掲げられた
聖アンナ教会。
ワルシャワ大学。
37階建て、塔の高さ234mの文化科学宮殿。
スターリンからの贈り物として、
1952年から4年もかけて建てられたものらしい。
これで、観光は終了。
ホテルに戻る前に、ワルシャワ中央駅で、
翌日のクラクフ行きの鉄道チケットを買いました。
Warszawa Centralna 4:30発→ Krakow Glowny 7:45着。
EIC(エクスプレス・インターシティ)。
全席指定制2等のチケットで、115.5ズロチ(≒4,102円)。
翌日は4:30の列車に乗るために、
朝(夜中)3時には起きなければなりません。
なので夕食は、スーパーマーケットで買ったパンとお惣菜で
済ませちゃいました。
そして20:30早々と就寝。
つづく
5. ワルシャワ 王宮広場~バルバカン [2011 ポーランド・スロバキア・ハンガリー]
2011年4月28日(木)~5月6日(金)
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月29日(金)
無名戦士の墓で衛兵交代式を見た後は、王宮広場へ行きました。
歩いている途中にあった、
元々は貴族の館だったという大統領官邸。
ポーランドの国民的詩人、アダム・ミツキエヴィッチの像。
ロマン派の詩人だけど、祖国独立のために活発な政治活動を
した愛国者としても知られているのだそう。
王宮広場。 右側の建物が旧王宮。
中央は、1596年にポーランドの首都をクラクフから
ワルシャワへ遷したジグムント3世の像。
王宮広場から旧市街をしばらく歩いて、旧市街広場に到着。
広場沿いにはオシャレなカフェなどがたくさん。
ワルシャワ市の紋章となっている人魚の像。
観光用馬車も走っていました。
15~16世紀に造られたという砦、バルバカン。
重厚なレンガ造りが続いています。
第2次世界大戦で破壊され、
1954年に旧市街とともに復元されたとのこと。
火薬庫や牢獄としても使われていたようです。
つづく
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月29日(金)
無名戦士の墓で衛兵交代式を見た後は、王宮広場へ行きました。
歩いている途中にあった、
元々は貴族の館だったという大統領官邸。
ポーランドの国民的詩人、アダム・ミツキエヴィッチの像。
ロマン派の詩人だけど、祖国独立のために活発な政治活動を
した愛国者としても知られているのだそう。
王宮広場。 右側の建物が旧王宮。
中央は、1596年にポーランドの首都をクラクフから
ワルシャワへ遷したジグムント3世の像。
王宮広場から旧市街をしばらく歩いて、旧市街広場に到着。
広場沿いにはオシャレなカフェなどがたくさん。
ワルシャワ市の紋章となっている人魚の像。
観光用馬車も走っていました。
15~16世紀に造られたという砦、バルバカン。
重厚なレンガ造りが続いています。
第2次世界大戦で破壊され、
1954年に旧市街とともに復元されたとのこと。
火薬庫や牢獄としても使われていたようです。
つづく
4. ワルシャワ 無名戦士の墓 [2011 ポーランド・スロバキア・ハンガリー]
2011年4月28日(木)~5月6日(金)
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月29日(金)
ポーランド・ワルシャワ、市内観光。
ピウスツキ広場にやってきました。
ここには、「無名戦士の墓」があります。
お墓は衛兵2名によってしっかり護られています。
平和が永遠に続くようにとの祈りで灯されている炎。
毎正時に、衛兵交代式が行なわれます^^
中にいた衛兵2名が外に出てきました。
衛兵交代式、派手なパフォーマンスがないものでも、
つい見に来ちゃいます^^
つづく
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月29日(金)
ポーランド・ワルシャワ、市内観光。
ピウスツキ広場にやってきました。
ここには、「無名戦士の墓」があります。
お墓は衛兵2名によってしっかり護られています。
平和が永遠に続くようにとの祈りで灯されている炎。
毎正時に、衛兵交代式が行なわれます^^
中にいた衛兵2名が外に出てきました。
衛兵交代式、派手なパフォーマンスがないものでも、
つい見に来ちゃいます^^
つづく
3. ワルシャワ ホテル・メトロポール [2011 ポーランド・スロバキア・ハンガリー]
2011年4月28日(木)~5月6日(金)
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月29日(金)
ロンドン・ヒースロー空港(T5)7:35発
→ポーランド・ワルシャワ11:00着
BA846便、定刻どおりに到着。
空港からワルシャワ市内へは、市バスを利用しました。
バス乗り場の案内は、空港の建物内にはなかったけれど、
建物の外に出てみると進むべき方向への矢印がたくさん。
けっこう歩きますが、その矢印に従って進めば辿り着けます。
その間、タクシーの勧誘がとっても多かった・・・。
市バス175番
ワルシャワ中央駅まで 1.2ズロチ(≒42円)
私が券売機で買ったチケットはオフピーク券だったのかな?
ガイドブックに書いてあった2.8ズロチよりも、
なぜかお安い・・・(^^;
それとも間違えて買ってる??
バス車内の改札機に通してもエラーにはならなかったけど~。
空港11:35発のバスに乗り、
ワルシャワ中央駅に12:08着。
ワルシャワでの宿はワルシャワ中央駅の近くにある
ホテル・メトロポール・ダウンタウン・ワルシャワ。
エクスペディアで予約。
スタンダードダブル Room Only 1泊 5,156円(税サ込)
チェックインは14時からとなっていたけれど、
12時過ぎの到着で、すぐに部屋に入れてもらえ、
とても助かりました^^
まずは、ワルシャワ中央駅へ行って、
翌日のクラクフ行きの鉄道チケットを買おうと思ったのだけど、
駅の窓口は、ありえないくらいの大行列・・・。
で、また夕方に来ればいっかと買うのは諦め、
ワルシャワ市内観光へ。
旧市街に向かう途中にあったコペルニクスの像。
地動説を唱えたコペルニクスは、
ワルシャワ西北にあるトルン出身とのこと。
コンパスと天球儀を持っています^^
コペルニクス像の近くにあった気になる建物。
首と背中がとっても痛そう~。
ヴィジトキ教会。
第2次世界大戦のとき、
ワルシャワ市内では奇跡的に破壊を免れたとのこと。
内部の装飾がとてもキレイでした^^
ヴィジトキ教会の前にあった像。
どなたか分からなかったので台座に掘られたお名前で
検索してみたら、ポーランドのローマカトリック司教
ステファン・ヴィシンスキーさんとのこと。
つづく
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月29日(金)
ロンドン・ヒースロー空港(T5)7:35発
→ポーランド・ワルシャワ11:00着
BA846便、定刻どおりに到着。
空港からワルシャワ市内へは、市バスを利用しました。
バス乗り場の案内は、空港の建物内にはなかったけれど、
建物の外に出てみると進むべき方向への矢印がたくさん。
けっこう歩きますが、その矢印に従って進めば辿り着けます。
その間、タクシーの勧誘がとっても多かった・・・。
市バス175番
ワルシャワ中央駅まで 1.2ズロチ(≒42円)
私が券売機で買ったチケットはオフピーク券だったのかな?
ガイドブックに書いてあった2.8ズロチよりも、
なぜかお安い・・・(^^;
それとも間違えて買ってる??
バス車内の改札機に通してもエラーにはならなかったけど~。
空港11:35発のバスに乗り、
ワルシャワ中央駅に12:08着。
ワルシャワでの宿はワルシャワ中央駅の近くにある
ホテル・メトロポール・ダウンタウン・ワルシャワ。
エクスペディアで予約。
スタンダードダブル Room Only 1泊 5,156円(税サ込)
チェックインは14時からとなっていたけれど、
12時過ぎの到着で、すぐに部屋に入れてもらえ、
とても助かりました^^
まずは、ワルシャワ中央駅へ行って、
翌日のクラクフ行きの鉄道チケットを買おうと思ったのだけど、
駅の窓口は、ありえないくらいの大行列・・・。
で、また夕方に来ればいっかと買うのは諦め、
ワルシャワ市内観光へ。
旧市街に向かう途中にあったコペルニクスの像。
地動説を唱えたコペルニクスは、
ワルシャワ西北にあるトルン出身とのこと。
コンパスと天球儀を持っています^^
コペルニクス像の近くにあった気になる建物。
首と背中がとっても痛そう~。
ヴィジトキ教会。
第2次世界大戦のとき、
ワルシャワ市内では奇跡的に破壊を免れたとのこと。
内部の装飾がとてもキレイでした^^
ヴィジトキ教会の前にあった像。
どなたか分からなかったので台座に掘られたお名前で
検索してみたら、ポーランドのローマカトリック司教
ステファン・ヴィシンスキーさんとのこと。
つづく
2. コンフォートホテル・ヒースロー [2011 ポーランド・スロバキア・ハンガリー]
2011年4月28日(木)~5月6日(金)
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月28日(木)
成田空港10:55発
→ロンドン・ヒースロー空港(T5)15:05着
BA006便
実際の到着は25分遅れの15:30でした。
ヒースロー空港には、ブリティッシュ・エアウェイズ・
ビジネスクラス客用のファストレーンがあるのですが、
時間帯によっては開いていないこともあり、
このときも閉まっているような感じでした。
で、普通のレーンに並んだら、
なかなか混んでいて30分くらい待ったかな。
入国審査もファストレーンだったら何も聞かれないで
済まされるのに、普通のレーンで色々細かく聞かれて、
かなり困ってしまいました。
翌日の4月29日がウィリアム王子の結婚式だったから
厳しかったのかな。
結局、荷物を受け取って外に出られたのは16:20でした。
この日は、ヒースロー空港近くのホテルで1泊。
ホントは当日中に乗り継いで、ポーランド・ワルシャワまで
移動している予定だったのだけど、
3月11日の東日本大震災後の放射能漏れの影響で、
突然、成田発ロンドン行きの直行便が、
韓国・仁川経由になったんです。
おそらく放射能の危険がある東京に、
乗務員を宿泊させられないということなのでしょうが・・・。
で、3月下旬ころだったかな、
仁川経由になる分、ロンドン到着が遅れるので、
同日乗り継ぎは出来なくなると電話があり、
仕方なく翌日の飛行機に変更。
それなのに、出発間際になって仁川経由は取り消しとなり、
再び同日乗り継ぎに変更してもらおうと思ったら、
すでに満席で不可!!
そんなこんなでヒースロー空港近くのホテルに1泊すること
になったのでした・・・。
ヒースロー空港から宿泊するホテルまでは、
Hotel Hoppaバスを利用。
H58 40分毎の運行。
片道4.5£だけど、往復で買うと8£です^^
空港T5を16:40に出発するバスに乗れました。
10分くらいでホテルに到着~♪
コンフォートホテル・ヒースロー。
楽天トラベルで予約しました。
ツインのシングルユース
Room Only 1泊 5,000円(税サ込)。
お腹は空いていないし、
TVはロイヤルウェディングのことしかやってないし、
他にすることもなかったので、
19:30すぎには寝ちゃいました・・・(^^;
4月29日(金)
たっぷり眠って、朝4:00起床。
4:50チェックアウト。
5:00発のHotel Hoppaバスで、
ヒースロー空港T5へ向かいました。
ホテルは素泊まりだったので何も食べずに空港へ。
そして、ブリティッシュ・エアウェイズのラウンジで
朝ごはん~♪ ガッツリいただきました^^
ラウンジの窓からの景色^^
ロンドン・ヒースロー空港(T5)7:35発
→ポーランド・ワルシャワ11:00着
BA846便 ビジネスクラス機内食。
つづく
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
4月28日(木)
成田空港10:55発
→ロンドン・ヒースロー空港(T5)15:05着
BA006便
実際の到着は25分遅れの15:30でした。
ヒースロー空港には、ブリティッシュ・エアウェイズ・
ビジネスクラス客用のファストレーンがあるのですが、
時間帯によっては開いていないこともあり、
このときも閉まっているような感じでした。
で、普通のレーンに並んだら、
なかなか混んでいて30分くらい待ったかな。
入国審査もファストレーンだったら何も聞かれないで
済まされるのに、普通のレーンで色々細かく聞かれて、
かなり困ってしまいました。
翌日の4月29日がウィリアム王子の結婚式だったから
厳しかったのかな。
結局、荷物を受け取って外に出られたのは16:20でした。
この日は、ヒースロー空港近くのホテルで1泊。
ホントは当日中に乗り継いで、ポーランド・ワルシャワまで
移動している予定だったのだけど、
3月11日の東日本大震災後の放射能漏れの影響で、
突然、成田発ロンドン行きの直行便が、
韓国・仁川経由になったんです。
おそらく放射能の危険がある東京に、
乗務員を宿泊させられないということなのでしょうが・・・。
で、3月下旬ころだったかな、
仁川経由になる分、ロンドン到着が遅れるので、
同日乗り継ぎは出来なくなると電話があり、
仕方なく翌日の飛行機に変更。
それなのに、出発間際になって仁川経由は取り消しとなり、
再び同日乗り継ぎに変更してもらおうと思ったら、
すでに満席で不可!!
そんなこんなでヒースロー空港近くのホテルに1泊すること
になったのでした・・・。
ヒースロー空港から宿泊するホテルまでは、
Hotel Hoppaバスを利用。
H58 40分毎の運行。
片道4.5£だけど、往復で買うと8£です^^
空港T5を16:40に出発するバスに乗れました。
10分くらいでホテルに到着~♪
コンフォートホテル・ヒースロー。
楽天トラベルで予約しました。
ツインのシングルユース
Room Only 1泊 5,000円(税サ込)。
お腹は空いていないし、
TVはロイヤルウェディングのことしかやってないし、
他にすることもなかったので、
19:30すぎには寝ちゃいました・・・(^^;
4月29日(金)
たっぷり眠って、朝4:00起床。
4:50チェックアウト。
5:00発のHotel Hoppaバスで、
ヒースロー空港T5へ向かいました。
ホテルは素泊まりだったので何も食べずに空港へ。
そして、ブリティッシュ・エアウェイズのラウンジで
朝ごはん~♪ ガッツリいただきました^^
ラウンジの窓からの景色^^
ロンドン・ヒースロー空港(T5)7:35発
→ポーランド・ワルシャワ11:00着
BA846便 ビジネスクラス機内食。
つづく
1. 成田~ロンドン・ヒースロー [2011 ポーランド・スロバキア・ハンガリー]
2011年4月28日(木)~5月6日(金)
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
ゴールデンウィークの旅~♪
JALマイレージ85,000マイルを使用して、
ブリティッシュ・エアウェイズの
ビジネスクラス特典航空券を予約しました。
4月28日(木)
当初、4月29日(金・祝)出発、5月8日(日)帰国で
予約していたのだけど、5月6日(金)の午後に、
どうしてもやらなきゃいけない仕事が入ってしまい、
帰国を2日早める代わりに、
出発を1日早くしちゃったのでした・・・(^^;
成田空港第2ターミナルJALラウンジ^^
ここで、明太子&ごはんをいただくのがお気に入り~♪
成田空港10:55発→
ロンドン・ヒースロー空港(T5)15:05着、BA006便。
ブリティッシュ・エアウェイズ
ビジネスクラス、窓側の席~♪
お隣との間に衝立を出すことが出来るので、個室感があります。
まったく人目が気にならず、とってものんびりできました^^
ミックスナッツとオレンジジュース。
最初の機内食。
胡麻風味のサーモン柚子ドレッシング、季節のサラダ。
ペルー風鶏肉の串焼き、ひじき御飯。
デザートのチョコレートケーキ。
2回目の機内食。
車海老とアボガドサルサ、季節の果物。
あまりお腹が空いていなかったので、メインのお料理はパスしました。
つづく
ポーランド・スロバキア・ハンガリー旅行記
ゴールデンウィークの旅~♪
JALマイレージ85,000マイルを使用して、
ブリティッシュ・エアウェイズの
ビジネスクラス特典航空券を予約しました。
4月28日(木)
当初、4月29日(金・祝)出発、5月8日(日)帰国で
予約していたのだけど、5月6日(金)の午後に、
どうしてもやらなきゃいけない仕事が入ってしまい、
帰国を2日早める代わりに、
出発を1日早くしちゃったのでした・・・(^^;
成田空港第2ターミナルJALラウンジ^^
ここで、明太子&ごはんをいただくのがお気に入り~♪
成田空港10:55発→
ロンドン・ヒースロー空港(T5)15:05着、BA006便。
ブリティッシュ・エアウェイズ
ビジネスクラス、窓側の席~♪
お隣との間に衝立を出すことが出来るので、個室感があります。
まったく人目が気にならず、とってものんびりできました^^
ミックスナッツとオレンジジュース。
最初の機内食。
胡麻風味のサーモン柚子ドレッシング、季節のサラダ。
ペルー風鶏肉の串焼き、ひじき御飯。
デザートのチョコレートケーキ。
2回目の機内食。
車海老とアボガドサルサ、季節の果物。
あまりお腹が空いていなかったので、メインのお料理はパスしました。
つづく
こちさの旅の記録(~2013)
こちさの旅の記録(2014~2017)
こちさの旅の記録(2018~2023)
こちさの旅の記録(2024~